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「さくら・草五郎の竜神伝説」
竜神画像さくら・草五郎です。 浦和の歴史ものがたりを担当し、毎週月曜日、「さくら・草五郎の竜神伝説」というページを更新します。
浦和には様々な竜伝説があります。ここではそれを紹介しながら、浦和の歴史をひもといていきたいと思います。長いお話しになりますので、少しずつ進めていきます。 皆様からのご質問、ご意見なども書き込めるようになっていますので、ぜひご参加下さい。
なお、2001年5月6日には「見沼竜神祭り」を開催しました。今年も巨大な竜が空を舞うことになります。今年の「見沼竜神祭り」の予定などにももおいおい触れていくつもりです。よろしくお願いします。
見沼竜神祭りフォトアルバム ご参照

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2002/06/03(月)
その12 中川・大和田 「見沼の笛」
むかーしむかし、見沼に夜な夜な怪しげな笛の音が鳴り響くようになった。「あの美しい笛の音は、広い見沼の何処にいても聞こえる!」と沼の船頭達の噂が始まって間もなくのことじゃった。木崎村の船頭、信三が夕暮れ時、片柳から舟で帰る途中のことじゃった。中川あたりまで来ると、林の中に黒い雲がゆったりと吸い込まれて行くのが見えた、不気味に思った信三は、舟をカヤの間に割り込ませる様にして、身を沈めて林の様子を見ておった。すると黒い雲が沈む辺りから、逆に白く光る物が立ち上がった。目をこらして良く見るとそこには髪の長い白い鱗模様の衣を纏った美女が立っておった。美女は笛を取り出すと、なんとも言えない音を奏で始めた。「竜だ!」そう直感して信三は身振いして生きた心地もしなかった。信三は竜神の変化を見てしまったからじゃった。竜の化身が竜に戻るところを見るのは良いのじゃが、竜が変化する所を見たら生きては帰れないといわれているからじゃ。信三がぶるぶる震えながら「助けてくれ! おら何も見てはいねーだ!おら、何もしらねーだ!」と顔を両手で覆いながらつぶやくと、「誰にも言わなければ、それでよいのです」と笛の音が、信三に呼びかける美女の声にかわってた。それを聞いた信三は「いわねー! いわねー! 誰にもいわねーだ!」といい、少しばかり安心すると疲れきって美しい笛の音に酔ったまま、そのまま舟の中で眠り込んでしまった。翌朝、目を覚ました信三は、カヤの間から恐る恐る昨夜の美女の居た所を見て試たのじゃが、美女の姿もなく鳥さえずりの聞こえる穏やかな林が見えるだけじゃった。信三は昨夜のことが、本当の事なのか夢だったのか分からなくなってしまった。「夢だったに違いない!」そう思いながらもあまりにも美しい女が笛を吹いていたので、竜の変化を見たとはいわず、「噂の笛を美女が吹いているところを見たぞ! それはそれは美しい女だった」と仲間の船頭達に話をしてしまった。「美女の吹く笛」の話は瞬く間に見沼周辺の村々に広まってしまった。それからというもの、周辺の若者達が夜に笛が鳴り響くと美女を追う様になってしまった。そうして、何人もの若者が帰らなくなってしまったのじゃ。美女を追っても、見つけることの出来なかった者だけが帰ってこれたと言うことじゃ。見沼周辺の村々は大騒ぎになった。信三は自分が「美女の吹く笛」と言ったことで、若者が居なくなってしまったことを後悔しておった。信三は、変化を見た近くの中川の神社に行き、「おらが悪かった! もうこんな事がおきねーように」と願掛けをしたのじゃが、それでもあきたらず舟で大和田村まで行くと、こんどは鷲神社に行って同じように願掛けをしておった。すると、そこで休んでいた浪人風の一人のお侍がおって、「何か困っておるのか! 申してみよ!」といわれ、「夜、見沼の辺で笛を吹く美女を追った若者達が、何人も帰らなくなってしまったのでございます。このような事が二度と起こらない様にお願いしていたのでございます」と話して聞かせた。侍は、「それは女狐の仕業じゃ、心配はいらぬ、わしが退治をしてくれよう!」といって「エイヤー」と刀を抜いて居合いを見せた。信三はその姿をみて頼もしく思い、「そうか! 女狐の仕業か!」とまで思ってしまった。それから何日も夜になると、信三はその侍と共に笛の音を追い、とうとう美女を探し出す時がきた。笛吹く美女をやっとの思いで見つけると、侍は信三にそっと淵に舟を寄せさせた。信三が恐る恐る女を見ると夢かと思った姿そのものだった。信三が「しまった! 竜神様だ!」と思った時、既に侍はひらりと舟から飛び降りざまに「おのれ! 女狐め!」と刀を振り下ろしていた。その時、バリバリバリッと大きな雷と共に、稲光が起きて大雨が降り、信三も侍も気を失い、何が何だかわからなくなってしまった。明け方、二人が気を取り直し、辺りを見ると確かに手応えのあった女の姿はなく、真っ二つに切られた笛が落ちているだけじゃった。侍は「あれは竜だったに違いない!」と言うと信三もコクンッと肯いた。それから二人は、笛の片方を中川の神社に、そしてもう片方を大和田の神社に納めて帰った。それからというもの笛の音もなくなり、行方知らずになる若者もいなくなったと言うことじゃ。

さいたま市大和田には鷲神社、中川には中山神社(かつての中氷川、簸王子宮)にまつわる話、夜な夜な見沼に響き渡る笛の音、信三はその噂により、夢を見たのだと思い込んでしまったが、さらに侍の言葉に女狐と思い込む。しかし、目の当りにした美女は夢と同じ姿の美女だった。そこで夢ではなかった竜の化身であると気付いたのだが、時既に遅く、侍の刀は美女に振り降ろされた。見沼周辺の村人にとって、竜は水神であり、何かがあれば竜神様の祟りと自分達をいましめていた。竜を封じる手立てを考えても竜をまともに退治しようなどと、祟りを恐れれば考えられない事である。夢と現実が入り交じることは如何にもありそうなこと。信三が竜と気付いた時、「竜を退治してはならねー!」と声に出掛かったかも知れない。二人は竜と知り、笛を神社に納めた。しかし、竜神は果たして何故に若者をさらったのだろうか。それは見沼の伝説に「蛍の御殿」というのがあるが、これに関連して考えたい。(次回をお楽しみに)
(文:さくら・草五郎)

2002/05/27(月)
その11 別所沼・二度栗山 「弁財天のお使い」
むかーしむかし、人力車を引く辰吉と言う男が、浦和から偉いお役人を乗せて志木まで行った日のことじゃ。お役人が急げと言うので、辰吉は必死で車を走らせた。志木に着いてお役人を降ろし車賃をもらうと「ありがとう御座いました、また御贔屓にして下さいまし!」と礼を言うと、スーとかじ棒を回し、帰りを急ぐように威勢良く走り始めた。お役人はその元気な辰吉の姿を見送り、「元気で熱心な車屋だ、贔屓にしてやろう!」と思った。元気な所を見せた辰吉は、お役人から見えない所まで来るともうクタクタになって歩きだしてしまった。それを見た道行く人達は「なんと元気の無い車屋だろう!」と辰吉を眺めておった。よたよたと別所沼の辺りに来ると、沼の弁天島の辺りで一休みすることにした。車を止めて草むらに横になると、直ぐに眠ってしまったのじゃ。暫くして、ふと目を覚ますともう夕暮れ時になっておった。大きく伸びをして、少しばかり残っていた竹筒の水を飲み干すと元気を取り戻し「さて!」と立ち上がった。すると車の前にそれはそれは器量良しの娘が立っておった。辰吉はあまりにも色白で美しいので暫くキョトンとして娘の顔を見ていると、娘は「辰さんとやら!私を二度栗山迄乗せていって下さいまし」と 言うではないか。辰吉は自分の名前をどうして知っているのかと思ったのだが、元気に「へいっ!」といって娘を乗せると、いなせにかじ棒をにぎり、お役人を乗せた時より張り切って、元気に二度栗山へと走ったのじゃよ。じゃりの新道を行き中里に入り、石碑の所をまがって坂を下ると二度栗山の石段下へ着いた。かじ棒を丁寧に降ろし、「娘さん、お待ちどうさま着きましたよ」といいながら振り返ると、驚いたことに娘は乗っていない。「何だー、途中で落とすはずもねーし、降りられるはずもねーに……」訳が分からず座席を見ると、なにやらしっとりと濡れたようになっている。何気なく振り向いて石段の方をみると、白蛇が石段をスルスルと登って行くではないか!普段は威勢のいい辰吉も「美女は白蛇の化身だったのか」そう思うと、足がガクガク震えて立っていられず、一端はその場に座り込んでしまったのじゃが、気を取り直して急いで浦和に帰ったそうな。それからも車屋仲間で同じことが何度もあったそうじゃ。白蛇は竜神様ともいわれ、それからというもの、別所沼弁天の竜神様は二度栗山弁財天と宇賀神様を行き来しているという噂が広まったのじゃよ。

さいたま市別所の別所沼には弁天島があり、その弁天様が中里の二度栗山弁財天と宇賀神様に使いを出したのであろうか。宇賀神様は穀物・食膳の神といわれ白蛇神、竜神の化身といわれる水神様でもある。福神・水神として弁財天と共にまつられることが多く、白蛇は弁才天の使者ともいわれる。他に二度栗山の弁財天は別所沼の弁天島や上野の弁天池に使いを出して、人々が水に困らないようにしていたともいわれている。二度栗山弁財天には白蛇をあしらった石塔があり、ここを守る井原氏はこの石塔と別所沼弁天を竜神様と崇めている。
(文:さくら・草五郎)

2002/05/20(月)
その10 長伝寺(本町東)「水飲み竜」
むかーしむかし、鴻沼という沼周辺の村々は、それはのどかな村だったのじゃが、一度大雨でも降ろうものなら困ったことに水が溢れ出して家も田畑もみんな水浸しになっての、作物は腐ってしまい水の害には本当に悩まされておった。ところが、与野の田畑はこの水害に遭わなかった。村人達はそれはそれで結構なことなのじゃが、皆不思議でならなかった。そんな最中に、これまた不思議な出来事がある物じゃと、ある噂が流れたのじゃよ。それはどんな噂かと言えば、長伝寺というお寺の噂じゃった。長伝寺の欄間には立派な竜の彫刻があっての、ある晩お寺の住職が本堂へ行って見ると、なんと欄間の竜がいなくなっていたそうじゃ。「これはこれは、何としたことじゃろう!」と住職は夢ではないかと、ほっぺたをツネッテ試たり、目を何度もこすったりして見たのじゃが、欄間の竜はいない。そこで小僧達を呼んであたりをくまなく捜したのじゃが、どこにも見当たらない。「どうしたことか!」と言いながらも、住職も小僧達も寝ることにした。翌朝、一番に目を覚ました小僧が大声で「竜!竜が!ラララ欄間に居ます!」と叫んだので、住職も他の小僧も飛び起きて皆で欄間を見たそうじゃ。すると欄間の竜は今迄のままそこにいるではないか。それが二度三度とあったものだから、村中に噂は広がり、村人達が交代で見張るようになった。ところが、何日経っても欄間の竜はそのままじゃった。そのうち村人達は「欄間の竜がいなくなる筈がない!」と、誰も見張りに来なくなってしまったそうな。それから数日後、雨の降る晩のことじゃった。竜のことを忘れかけていた小僧が本堂に行って何気なく欄間を見上げると、また竜がいない!「たたたた大変だー」腰を抜かしそうになってやっと叫ぶと、住職もほかの小僧達も駆け寄ってまたまた皆、びっくり仰天したそうじゃ。こんどは村人には話さず、「寺の皆で見張っていよう」と、交代で見張ることにしたのじゃよ。しかし何日も竜はそのままで一向に動かない、それでもとうとう竜が動く日がやってきおった、朝から一日中雨の降る日で、この日の晩は住職が見張っていたのじゃが、ついつい眠ってしまい「しまった!」と目を開けようとすると何かが光ったので眠った振りをしたまま、そーっと薄目を開けて欄間を見ると、ギョロ!ギョロ!と竜の目が動いて光り、するすると欄間から降りてきて雨の中を表に出ていったそうな。住職は、小僧達を起こして竜の後を追って行った。すると竜はあふれんばかりの川に飛び込み、ガボガボと大きな音を立てて川の水を飲み始めたそうな、川の水はみるみると減って行き、元の川に戻ったと言うことじゃ。住職と小僧はそれを見て直ぐに寺に戻ると「欄間の竜は、川の水があふれない様に夜抜け出しては、水を飲みに行って村を守っていてくれたに違いない!」「そういえば欄間から抜け出した時は、雨の多く降る日だった!」と言いながら床に就いた。翌朝、本堂の欄間には竜が戻っていたそうじゃ。それ以来、村人達に「水飲み竜」と言われるようになり、与野が水の害が少ない訳も分かったのだそうじゃ。

さいたま市本町東、そこには長伝寺というお寺がある。現在でも、本堂に竜と虎の欄間の彫刻がある。そのうち一つの欄間の竜が「長伝寺の水飲み竜」である。水害が比較的少なかったことから生まれたであろうこの伝説は、水を司る神として古くから奉られる竜神の伝説に相応しい。与野の地名はアイヌ語のヨナイからきているものと言われ、ヨナイには共同開墾地や共に他人を補助するなどの意味がある。そのように協力し合い開拓され、そして守られた土地を長伝寺の竜神様は守ったのかも知れない。
(文:さくら・草五郎)

2002/05/13(月)
その9 愛宕神社遍(大門) 「釘付けの竜」「左甚五郎の竜」
むかーしむかし、大門村には十二所権現と言う様々の神様を奉った所があっての、そこは後に大門神社となったのじゃが、愛宕と言う神社があった。この話はその愛宕神社にまつわる話で、国昌寺の竜伝説と良く似たところもあるのじゃが、これは国昌寺より少しばかり古いお話じゃ。大門村周辺には2匹の竜がおっての、それがたいそうな暴れもので村人達は困っておった。なにしろ田畑を荒らしまくるばかりか、収穫した作物まで食い散らかして、みな駄目にしてしまうのじゃよ。「これじゃーいくら働いたってなんにもならねー」「だれか、悪さをしている者が居るんでねーのか?」「それじゃ祟りでねーか!」「竜神様の祟りかねー」「どうあれ、このままじゃなもならねーどころか、食うことさえ出来ねーべ」「そのとおりだ」「何とかせねばならねー」と、百姓たちは口々にこぼしておったのじゃが、結局「名主様に相談してみるべー」ということになった。百姓達が名主のところに集まって相談すると、「竜神様に関することだけに、めったやたらに騒がぬほうが良い!私は私で、親しいお侍に相談してみるから、皆は竜神様の祟りに合わぬ様に暫く我慢して、働いていてほしい…」と皆に言い聞かせた。そうして、名主は大牧の親しいお侍を訪ねた。お侍は、「竜神様となると、退治をしようなどと考えたら水怒りを起こし、見沼周辺の村人を呑み込んでしまうだろう!」すると名主は、「雷もバリバリ落として、大木も次々なぎ倒すでしょう」と言って、では、どうした物かと二人は考え込んでしまった。暫くするとお侍は、「そうだ、竜の彫り物を然るべきところに掲げて封じる手立てがあると聞いたことがある!」と言ったのじゃ。「それは名案!しかし竜を彫る者が居るかどうか?」と、こんどは名主が言うと、お侍は「それは腕利きに頼んだ方が良いだろう!やたらな竜ではなおさら竜神様の怒りをかってしまうだろうから」と言い、数日後お侍は神田の鍛冶屋に行って腕気きを頼んだ。そうしてやって来たのが左甚五郎だったのじゃ。左甚五郎と言う腕利きの彫り物師は日光東照宮の大造営に向かう前に立ち寄って竜を彫ったのじゃ。その竜を大門村十二所権現の愛宕社向背に掲げ封じ込めたのじゃよ。ところが甚五郎が竜を彫る時、用意した欅材を竜神は真二つに割ってしまい、甚五郎にこう言って別の木を差し出したのじゃ。「おまえの腕が確かなら、どんな木でも掘れるだろう!へたな竜を彫ったらただでは済まぬぞ!」そう言って竜巻のように消え去ったのじゃ。竜神が差し出した材料は乾いた枝のある木だったのじゃが、甚五郎はそれを見事に彫り上げた。それからというもの、2匹の竜は姿を消したのじゃが、時折田畑が荒れていることがあるので、甚五郎の彫った愛宕社の竜が夜中に抜け出したいるのではと、村人が甚五郎の竜に太い釘を打ち込んでさらに封じたということじゃ。

さいたま市大門、122号線を背に越谷街道沿いを行くと右に大門宿場当時の脇本陣門、すぐ先左には本陣の門が残されている。そこからさらに直進し暫く行くと左に大きな赤い鳥居があり、長い参道がある。大門神社入り口である。参道を抜けると正面に大門神社そこに大きな竜の彫り物がある。その奥にも社があり、そこには二匹の竜がある。しかし、左甚五郎が日光に向かう途中に立ち寄り彫った竜はこのどちらでもない。大門神社正面に向かい左手に小さな社がある。それが愛宕神社でその向背に彫られているのが、左甚五郎が彫った竜である。封じ込められた竜神がまるで喘ぐように首から竜頭を突き出している。よく観察するとやはり、通常の木彫り用に用意された材料とは思えない。首から突き出した竜頭の部分は枝木そのもののようだ。竜神は正に左甚五郎に挑戦状を突き付け、甚五郎は彫り勝ったのである。そう思いながら柏手を打ち一礼した。一つの境内に4つの竜の彫り物があるのも珍しく、かつての村人と竜神の結びつきが伝わって来る。
(文:さくら・草五郎)

2002/05/08(水)
スタートした竜神月間
5月3日、旧浦和地区大崎の見沼ヘルシード西側、クリーンセンター大崎遊水池で、4日には旧大宮地区の見沼グリーンセンター市民の森で「さいたま見沼竜神まつり」が開催された。3日には、早朝から10時開催に向けて約45mの昇天竜にヘリュームが注入され、メーン会場にはイベントコーナーやステージ設営、模擬店の準備が行われていた。会場スタッフは男性も女性共に鱗模様の長半纏姿。背中には真っ赤な「竜神」の文字を背負ってなれない作業に駆け回る。「文化と歴史を活かした誇りの持てるまちづくり」を目的に「めざせ日本一」のスローガンを掲げ、「さいたま市の新しいお祭り」にと立ち上がった旧浦和・大宮・与野地区の民間有志達。いわゆる「竜神組み」だった。駆け込みで準備も整い、会場には竜の昇天にふさわしい音楽や、竜神伝説に因んだ歌が鳴り響いた。ステージ前方のイベント会場では、子供達に見沼の竜神伝説を知ってもらおうと埼玉中央JCのメンバーで工夫された様々のゲームが繰り広げられた。泥を磨きに磨いてピカピカの竜の玉を作る「光る泥だんご」、鯉や魚の模型を釣り上げる「氷川女体神社」、笛を吹く美女を盤面に配した「見沼の笛」、竜伝説を30種類のカラーアニメカードに反映させて勝ち負けを競う「竜神伝説の砦」対戦フィールド、おしゃもじにボールを乗せて運ぶ「おしゃもじ様」、二匹の竜のパネルにボールをぶつける竜退治「愛宕社の竜」など、総てが見沼の竜神伝説やその名称に因んだ物で、沢山の子供達が集まり始めた。片や会場と離れた国昌寺には、10時になると長さ約10mと約9mの二匹の竜、他に竹ぼうき・ペットボトルとデッキブラシで作られたカラフルな竜を担いだ人達と一般の人達が「伝説ラリー」に参加者しようと集合していた。国昌寺では、開かずの門の上の「釘づけの竜」と言われる竜を解き放つ厳粛な儀式が執り行われ、住職の「開門!」の言葉を合図に「開かずの門」が開き、様々の竜とラリー参加者が境内から山門をくぐり、片柳の万年寺・氷川女体神社・メーン会場へと向けて出発した。いずれも竜伝説のある所をめぐる約8kmのコースだった。メーン会場正面では気流まじりの風に昇天竜はあおられ竜神担当者達が苦戦していた。ステージでは、見沼通船堀船唄や見沼音頭が、さいたま観光クイズ、竜神伝説クイズ、竜神関係の歌や太鼓が披露された。会場内模擬店には和菓子の「竜眼」(るがん)、竜のTシャツ、その他竜神グッツが販売され食べ物では「竜神弁当」、「竜の子」が販売され、見沼に竜一色の雰囲気が広まった。昇天竜は強風に耐え切れず、フィナーレでは竜頭(竜頭)のみの昇天となり、昇天竜会場に五団体の約50の太鼓が勢揃いし打ち始めた。太鼓の音と共にそれまで横に流された竜頭は高々と昇天しフィナーレを向かえた。

4日の市民の森会場では伝説ラリーを除き同規模で開催、イベントの出し物は異なるものの昇天竜は全長45mを悠々と泳がせ様々のリアルな空遊を見せた。イベントは「うなぎやどじょうの掴み取り」に親子が集まり、熱中する子供と囃し笑う大人達、他に昇天竜の「お絵描きコンテスト」「竜の泣き声コンテスト」が行われ会場を賑わせていた。フィナーレでは大宮地区の太鼓が3団体同時に連打し、待ち受けた昇天竜は、まるで太鼓に合わせるかのようにうねりを見せながら高々と昇天した。

19日、与野地区の「ばらのまち」フェスティバル会場には昇天竜の巨大「竜頭」を登場させ、竜神関連商品が販売される。9時〜4時まで(与野公園にて)
(文:さくら・草五郎)

2002/04/29(月)
その8 天沼神社遍(天沼)「おしゃもじ様」
むかーしむかし、今の天沼神社が熊野神社とだった頃のお話なのじゃが、この神社は「おしゃもじ様」とも呼ばれておったそうな。なぜそう呼ばれたかと言えば少しばかり長い話になるのじゃが、むかし天沼村に小六と言うとっても素直な男の子がおっての、その子が百日咳にかかって「コホッコホッ!ゲホッゲホ!」と大層苦しんでおったそうじゃ。六番目の男の子なのじゃが、母親は小六が生まれて間もなく病気で亡くなったこともあり、いつもちょろちょろと父親に付いて歩いていたので、父親は眼の中に入れても痛くない程小六を特別可愛がっておったそうじゃ。その小六が百日咳にかかってしまったので、父親は心配でならなかった。そんなある晩のことじゃった。父親が小六を抱きかかえて眠りかけた時じゃった。なにやらあたりが明るくなるのを感じて、ふと眼を開けるとなんと!昼よりも明るくあたりが輝いているではないか。それはあまりにも明るくきらびやかで、土壁の剥がれた貧しい家の部屋の中でさえきれいに見える程でした。父親がまぶしそうにあたりを見渡し振り向くと、そこには金色の竜がいるではないか!父親はめったに現われないと言われる金の竜をありがたく拝み、ゴザに頭を摩り付ける様にお辞儀をしたそうじゃ。すると「頭を上げなさい!」と言ったそうじゃ。父親が頭を上げると、金の竜は「小六の咳を直すには、熊野神社に小六と行ってお願いすると良い!」そう言うと姿を消したそうじゃ。翌朝さっそく父親は小六を連れて熊野神社にお参りに行くと帰りには咳が止まり、すっかり直治ってしまった。父親はお礼にと、熊野神社におしゃもじを持って行ったと言うことじゃ。咳が治ったことは村中評判になり、咳で悩む人はみんなお参りに行っては、咳が治ると父親のようにおしゃもじをお礼に持っていったそうじゃ。それ以来村人は熊野神社を「おしゃもじ様」と言うようになったのじゃ。

さいたま市天沼に、やはり竜伝説のある大日堂のすぐ側に天沼神社がある。この神社がかつての熊野神社で、今でも「おしゃもじ様」と言われている。小六の父親はなぜおしゃもじをお礼に持って行ったのだろうか。むかし咳やクシャミなどを「しわぶく」とか「しゃぶく」「しゃびき病」と言われていた時代がある。この話はおそらくその頃の話と思えてならない。さいたま市白幡に「おしゃぶき様」という咳の病が治ると言われる所がある。この「おしゃぶき」は「しゃびき病」を治すことから転じて「おしゃぶき様」と言われるようになった。父親はおそらく、「しゃぶき病」を治してもらったので、しゃぶきをしゃもじに転化してお礼としたのであろう。ちなみに白幡の「おしゃぶき様」はお礼はよだれかけで今でも老婆の石像には新しいよだれかけが幾つも掛けられている。
(文:さくら・草五郎)

2002/04/22(月)
その7 大牧遍 「御沼の手毬」
むかーしむかし、見沼が御沼と記されていた頃にはの、見沼の竜神様は沼の主とはいえどもなんと言っても偉い水の神様だったものじゃから、鯉やナマズなど沼の生き物達は竜神様と遊ぶことなど全く無かった。それだけに竜神様はちょっぴり寂しがり屋だった。ところが、竜神様には一つだけ楽しみがあった。それは何かと言えば見沼の回りで遊ぶ子供達の姿を見ることじゃった。竜神様は子供達が大好きで、沼の葦の間から分からない様にそーっと顔を出しては、子供達の遊んでいる所を見たり、楽しそうな童歌を聞いていたのじゃよ。時には、村の女の子に化けて、近くで見ていることもあった。ある日のことじゃった。いつものように竜神様が沼を泳いでいると、子供達の手毬歌が聞こえてきた。そこは大牧というところじゃった。大牧にはお侍がおっての、そのお侍の子供と村の子供達がかわいい手毬を持って、歌を歌いながら遊んでいるではないか。手毬が弾んだり、子供達の間を飛んでいるのを見て、竜神様はすっかり手毬が好きになってしまった。それからと言うもの、子供達が手毬で遊んでいるとどこからとも無く直ぐにやってきて、手毬遊びを見るようになった。そうしてこんどは、自分で手毬を作り始めた。何で作ったかと言えば、沼の水藻を丸めて作ったのじゃよ。そうして竜神様が手毬で遊んでいると鯉やナマズ達も喜んでの、「竜神様は手毬がお似合いです!」と言って一緒に遊ぶようになったのじゃよ。竜神様は遊び友達が出来てとても嬉しくなっての、いつも手毬離さず持っているようになったのじゃ。ところが、ある日手毬を持ったまま竜神様はうっかり空を飛んでしまった。すると、水藻でできた手毬は乾いてハラハラほどけてしまっての、散って無くなってしまったのじゃよ。竜神様は悲しくなって、暫く手毬を持っていた手を見つめているとホロリと大粒の涙を手の平にこぼしたのじゃよ。するとどうしたことか、その涙が見る見る膨らんできての、大きな玉になったのじゃよ。そうして竜神様の手の平で水晶玉になったのじゃ。それからと言うもの御沼の竜神様はいつでも水晶玉を離さず持っているのじゃよ。

さいたま市大牧、そこには昔お侍が居て、当時は足立郡尾間木村字大牧と記された時代の想定である。その頃のとも思える地図には御沼と記され、また三沼と記された地図もある。現在では見沼と記されているが、沼の主の竜神様が御座す沼として、御沼と記し「みぬま」と読むのが最も相応しく思える。この「御沼の手毬」、これは実のところ5年前の私の創作民話であり、この民話を作詞作曲し歌にもしてある。市内の「はらやま」という和菓子屋にはこの名の手毬に相応しい和菓子がある。語り継がれた竜神伝説とは言い難いが、途中に割り込ませてしまった。見沼の竜神の手にしている玉、それは元々は沼の水藻から始まり、それを失った竜神の涙が水晶と化した物である。と、想像すると街も楽しくなってきそうな、そんな思いで加えさせて戴いた。この後も、まだまだ「さいたまの竜神伝説」は続く。
(文:さくら・草五郎)

2002/04/15(月)
その6 万年寺遍(片柳)「竜神の決意」
むかーしむかし、見沼の干拓に携わっていた井沢弥惣兵衛為永と言う偉いお侍がおっての、そのお方は広い広い見沼の水を干して田んぼにする為に指揮をとっていなすった。その為永様は初めは天沼の大日堂と言うお寺を干拓事務所にしておったのじゃが、訳があって片柳の万年寺に事務所を移したのじゃよ。ところがの、なかなか工事は思うようにはかどらなかった。干拓に反対する村人も沢山おってのー、邪魔をされてしまったり、丁寧に説得して回ったりと、それはそれは老体に鞭打って大変ご苦労されておったのじゃ。ところが反対するのは村人ばかりではなかった。それは沼の水が無くなってしまっては困る竜神様じゃった。竜神様は水を与えてくれる大切神様なのだが、ひとたび怒らせてしまったら嵐や水怒りで、見沼を冠水させて村まで水浸しにしてしまうお方じゃ。それだけに村人達も「見沼を干したら、竜神様のたたりがあるに違いない!」と誰もが恐れておった。そんな中で為永様が疲れきって病に伏してしまった時のことじゃ。夜も更けて行灯の灯が消えかかる頃じゃった。女の声に為永様が薄目を開けると美しい女が座っているではないか。そうして、「見沼の水を干すのは止めて下さい」と深々と頭を下げるのであった。為永様はその美女を見つめながら「誰に言われても、これだけは止める訳にはいかんのじゃ」。そう言うと、美女の眼は一変してギラギラと光り、為永様を睨み付けた。その時、為永様はあることに気付きギョッとした。そのあることとはの、なんと!消えかかり、揺れる行灯の明かりで浮かんでいる美女の影が竜そのものだったのじゃよ。それでも為永様は少しも慌てる事も無く、「貴方は見沼の主の竜神様ですね、干拓を止めよ!というお気持ちは良く分かります。見沼の水を干しても、代わりに利根川から水を引き田んぼにして沢山の米を作らなければ、人間が生きて行けません。工事を中止するわけには行きません。私が生け贄になるのは構いませんが、代わりに工事を続けて米を作らして上げることを約束して下さい!」と言うと、為永様は覚悟を決めて眼をつむった。それを暫く見ていた美女と化した竜神様はスーと立ち上がり、「工事を続けそれを見送りなさい!貴方の様な人間が居なければ、田んぼはいつになっても出来ないでしょう」といったのじゃよ!見沼の主の竜神は、為永様の心意気に感心して、沼を明け渡す決断をしたのじゃよ。為永様の病も見る見る回復し、見沼は干拓され、広い「見沼田んぼ」となり沢山の米が作られるようになったのじゃ。

さいたま市片柳の万年寺には、井沢弥惣兵衛為永の功績を称える碑があり、干拓事務所としてここが使われていたことが記される。病に伏した所に現われる美女、天沼の大日堂と似た話でもあるが、大日堂から万年寺に事務所が移された。つまり、大日堂が先であり、大日堂の話は美女は大蛇の化身だった。それが原因で事務所が移されたともいう。それを考えると、竜神は為永に「干拓の中止をするように」と最初には使い(大蛇)を出した。それでも一向に止めないので、万年寺には竜神が直接出向いたとも考えられる。いずれにしても竜神は為永を痛めつけてはいない。見沼の竜神様は、たとえ自分に不利益なことをする者でも、真剣に働く者をけして邪険にはしなかったのである。
(文:さくら・草五郎)

2002/04/08(月)
その5 宗像神社遍(新右衛門新田) 「お宮弁天」
むかーしむかし新右衛門と言う名主には、お宮というそれはそれは美しい娘がおった。美しいばかりか、とても優しくて素直な娘じゃった。村でも評判だったのじゃが、お宮には誓い合った若者がおった。真蔵という若者で、若いわりにはしっかりとした働き者じゃった。二人の誓いとは夫婦になることじゃ。ところがある日を境に、お宮の様子がだんだんとおかしくなってきての。明るくて愛想の良かったお宮は、急に元気が無くなり、家にこもりがちで、体はやつれてとうとう寝込むようになってしまったのじゃ。医者に看てもらっても原因は分からない、どんなに高値な薬を飲んでも一向に回復しない。そうこうしている内に、とうとう臨終を迎えるところまで来てしまってのー。驚いたことに、最後にこう言って呼吸を引き取ったのじゃよ。「お宮は、見沼の竜神様に見初められてしまいました。竜神様に逆らうわけにはゆきませんし、真蔵さんとの誓いを破る事も出来ません。……お宮は、呼吸を止めてしまうしかないのです」とな!竜神様も村人の評判を聞いておったのじゃよ。悲しんだのは真蔵じゃった。真蔵は頭を丸めて旅に出てのー、弁天様を石に刻んでここに祀り、一生お宮の冥福を祈って過ごしたと言う事じゃ。

さいたま市新右衛門新田、ここは昔、新右衛門という人が開発した新田でその名が付くが、中川分水通りというバス通りから南を向いて少し右入ったところの右に鳥居があり、細く長い参道両側には杉の木が植えられ、その両脇は堀が切ってある。突き当たりは丸く手鏡の様になっており、そこに宗像神社がある。手鏡状の周囲には大きな杉の木を切った跡が有り、代わりに新しく植えた細い杉の木で囲まれている。やはり、その外周は堀を切ってある。少し前迄は周囲に水があったようだが、今はかれかけている。参道から神社まで、スープスプーンを縁取るように堀を切ってあるのは、いかにも真蔵が大切にしていたかの様でもある。この伝説の信憑性を高めているところは、この堀切りがいかにも竜神様を意識したものであるかのようだ。真蔵は竜神様を怨むでもなく、むしろお宮弁天を水で囲って竜神様がいつでも来やすい状態をつくったかのようである。いかにも、頭を丸めて出家した真蔵ならではの配慮とさえ思える。

 
いつも楽しく読んでいます。2002/04/10 14:41:50  
                     す〜爺

 
草五郎さん、初めまして。
 この連載が始まってから「マイタウン浦和」を開くのがいっそう楽しくなりました。これまでも、市報のコラムや会議所の「ひらめき」など、いろいろなところで草五郎さんの絶妙な語り口の民話を楽しませていただきましたが、このように「龍神伝説」だけをまとめて読めるのも、またうれしい限りです。
 ところで、草五郎さんにお尋ねしたいことがあります。じつは、昨年9月の「まちかどレポート」のなかの「コアラの夫」さんとのやりとりで、「代用水の高低差を測るのに東西の斜面林のところに提灯を並べて測量したらしい」などとウロ覚えのことを書いてしまったのですが、これの出典がどうしてもわかりません。わたしの思い込みにしては、この話を知って感動した記憶がはっきりあるのです。
 お手数ですが、ご存じでしたらお手透きの折りに教えてください。
 5月3日の龍神祭りには子どもたちを誘って出かける予定ですが、この連載のおかげで一段と楽しみが盛り上がってきました。これからも楽しい語りをよろしくお願いします。
 

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お声がけありがとうございます。2002/04/11 8:46:40  
                     さくら・草五郎

 
す〜爺 様
御愛読ありがとうございます。
ご質問の件ですが、「代用水の高低差を測るのに東西の斜面林のところに提灯を並べて測量したらしい」の件ですが、お話は有るようですね!しかし、ここでの提灯が測量の為の物であったの記述はまだ見ては居りません。測量を夜間にも行う折りに、明かり取りの目的で提灯を点けたことがその言葉に転じた可能性があるものと考えたいところです。竹を用いた高度な測量技術を持って代用水を短期間で完成させておりますので、提灯とは思いにくいのが私の見解です。あと一点は、代用水の東西の高低さと言うより、必要だったのは通船堀を作る時の東西の代用水と芝川の高低差を測る事だったのではないでしょうか。でも、提灯を用いる話はロマンを感じる話ですね。それから私がすべて竜の字(龍でなく)を使う訳も加えさせて頂きます。1900年前の「字統」という中国の辞書に「竜は龍の元字也」とあるようです。あとは子供達の親しみ安い竜で有りたいと思い、この字を用いています。ありがとうございました。竜神まつり会場でお会い出来ましたら光栄です。楽しみにしております。
 

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ありがとうございました。2002/04/12 15:21:42  
                     す〜爺

 
草五郎様。
 早速ご丁寧なお答えをありがとうございました。なるほど、おっしゃるとおり、工期の短さから考えると、提灯測量というのは誰かのロマンチックな作り話かもしれませんね。それと、「竜神」については大変失礼しました。せっかく思いを込めて「竜」と表記されていたのに、最初に変換されたものを深くも考えずにそのまま無神経に使ってしまい申し訳ないことをしました。今後ともいろいろご教示ください。
 

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(文:さくら・草五郎)

2002/04/01(月)
その4 厳島神社遍(下山口新田) 「美女と馬子」
むかーしむかし、西新井方面から木曽呂に向けて、馬子がから馬を引いて帰る途中のことじゃった。街道沿いで休んでいる娘の前を、パカパカと通り過ぎようとした時、「どうか、そのお馬に私を乗せてくださいませんか?」と天から娘の声が聞こえ、馬子はその声を聞いて、空や松の木の上の方を眺めたのだそうじゃ。すると、また天の方から「私はここで休んでおります」と言う声が聞こえた。馬子は街道で休んでいた娘に違いないと思い振り返ると、娘は見当たらない。へんだなーと思い、首をかしげながら馬を進めようとすると、馬の背には、それはそれは美しい娘がいつのまにか乗って居るではないか!馬子は驚いたのじゃが、あまりにも美しい娘なので、「どこまで 行ったらいいべ!」と恐る恐るやさしく聞いたそうじゃ。するとその娘は、「木曽呂まで」と、にっこり笑顔で言ったそうな。馬子は「木曽呂はおいらの帰るところだ、まかしとき!」と言って、元気に馬を引いたそうじゃ。馬は何やらとても緊張した様子で、カチカチになって歩いていたそうじゃ。やがて、木曽呂に着くと、娘は「ありがとうございました」と丁寧にお礼を言いながら「お礼に!」と馬子に小箱を渡したそうな。そうして「この小箱は宝物ですから決して開けないで下さい」とも言ったそうじゃ。馬子はそれを受け取り帰る途中、娘は小箱など持っていなかった筈なのになーと思っておった。馬子はこの不思議な話を主人に伝え、小箱を渡したそうじゃ。それからと言うもの主人は何をやってもうまく行き、商売は大繁盛でとっても栄えたのだそうじゃ。ところが、ある日主人はこっそり小箱を開けて中を覗いてしまったのじゃ。中には、ウロコの様な物が入っておったそうじゃ。それからは、何をやっても失敗続きで、商売もうまく行かなくなってしまい。不幸ばかりが続くようになり、すたれて行ったのだそうじゃ。村人達は「その娘は竜神様だったに違いない!竜神様のご機嫌を損ねてしまった」と言って、被害が村人達に広がらない内にと、弁天様を奉ったのだそうじゃ。その弁天様には大きな白蛇が何年も何年も現われたのだそうじゃ。

さいたま市下山口新田の南(川口市木曽呂との境)に、厳島神社がある。この神社は、吉岡家の敷地内にあり、吉岡家が神社守りをしている。ここにはかなり最近まで、「神社の主」と言われた大きな白蛇がいたと言う。大蛇伝説すなわち竜伝説で、竜と大蛇とは切り離せないものがある。美しい娘これは竜神その物か、竜神の使いか解釈は自由だが、竜の使いの白蛇の化身と考えるとこの伝説の場合は肯きやすい。天の声は正に竜神、馬がカチカチになっていたのは娘が人間でないことが分かっていた証拠と解釈して良い。小箱の中のウロコは竜のウロコと考えると、竜のウロコは繁栄をもたらす物となる。どうしたら竜のウロコを手に入れる事が出来るだろうか、思えば楽しいことである。失敗を招いたのは、約束を破ったことへの戒めであってウロコのせいではない。
(文:さくら・草五郎)