浦和という町を皆さんで考えていただくためのエッセイや、普段生活していて思うこと、街中を散歩して気が付いたことなどです。このレポートそれぞれにあなたのコメントが書き込めます。 、「コメントを書く」ボタンを押して書き込んでください。なお、まちかどレポーターを募集しています。こちらをご覧ください。 |
全19件中 新しい記事から 11〜 19件 |
先頭へ / 前へ / 1 / 2 / 次へ / 最終へ |
わたしが・浦和に・こだわる理由 | ||||||||||||||||||
私は北浦和駅から歩いて5分ほどのところに住んでいます。旧浦和市域の中では比較的与野、大宮に近く、さいたま新都心にも近いところの住民です。
ところが、ご存じのように与野市街地は埼京線与野本町駅中心にあり、大宮市街地が大宮駅を中心とした地域であることは言わずもがなのことです。どちらも自転車で20分はかかります。一方、浦和市街地には10分以内で行くことができます。私は、小・中・高と浦和市内の学校に通い、毎日の食材も、日用品も、本も、公共の施設も、全部浦和地域でお世話になってきました。つまり、私が生活しているのは、あくまでも浦和地域です。まさに「マイタウン浦和」なのです。 誤解のないように書き添えるなら、私には、大宮にも与野にも、かけがえのない友人や親しい人たち、お世話になった方々がたくさんいます。大宮駅に降り立つと、勝手知ったるよそのお家を訪れたときに感じるあの安らかさがあります。与野の本町付近に行くと、子ども時代にちょっと遠出をしてきたときのあの昂揚感を思い出します。言い換えれば、大宮・与野はとても「親しいお隣さん」なのです。 行政は、どういうわけか、さまざまなところでお互いに対立しながら合併してしまいました。どうして「親しいお隣さん」と対立したのでしょう。まして、それほどまでのシコリを残してまで合併しなければならない理由はなんだったのでしょう?20世紀最後の巨大プロジェクトである「さいたま新都心計画」実現のためだったのでしょうか? さいたま市は今後9つに区割りされるそうです。大きな都市の小さな地区に分けられます。できれば、住民サイドでは、もとの「親しいお隣さん」として、お互いに住みやすい町を作っていきたいものですね。「マイタウン浦和」は、私の生活圏であってみれば、いつまでも健在であってほしいものです。そして「マイタウン大宮」や「マイタウン与野」とも密接な交流ができればいいですね。 **9月10日(月)掲載**
|
代用水って何? | ||||||||||||||||||||||||||
浦和に移り住んで、はや六ヵ月。
長年、浦和に住んでいる方には何でもない事でも、よそ者には不思議に感じる事が多々、あります。 そのうちのひとつが、犬の散歩をしている時にいつも通る見沼代用水というものでした。 代用水って何だ? 農業用の用水路という事は想像がついたが、何故、代用水と呼んでいるの? 知らなくても別に困らないけど、そのままにしておくと何故か気になる。 そんな訳で、ちょっと調べてみました。 見沼は元々、縦16キロ、横1キロ〜2キロ、深さは1メートル位にも及ぶ大きな沼だったそうな。 江戸時代に八代将軍吉宗が、新たな新田の開発を行なう事になりました。 これは、貢租(こうそ)つまり農家に対して税金を課す事により、幕府の財政再建を図ろうとした為でした。 その候補地として、選ばれたのが見沼だったのです。 見沼は元々自然にできた沼でしたが、寛永6年、一部に堤防を作った事により溜井となり、上流地域 ―つまり、浦和地域― では、降雨による水害に悩まされるようになったからです。 亨保12年。 といっても、どれ位前かはよくわかりませんが、ようは大昔ですね。 見沼の開発が行なわれたのでした。 まず最初に、沼の両側に用水路をつくり60キロ先の利根川から用水をひくとともに、沼の水を放流しました。 これにより、沼の中には見沼田んぼと呼ばれる新田ができました。 今度は、そこへ水を運ぶため沼の中央部分に排水路をつくったのです。 余った水はここに集められ、これを下流の用水として利用しました。 見沼用水は江戸時代の代表的用水の1つとされ、わずか半年で完成させたそうです。 (紀州流工法 井沢弥惣兵衛) 見沼溜井の干拓により、約千二百町歩の新田が誕生しました。 利根川から延々60キロに渡る用水路の水は、灌漑水としてこれらの新田を潤しました。 そして、この水は用水路を作るためにできた他の干拓地へも配水されることになり、村々の水路に数十の導水桶を施設し水を分けたのでした。 つまり。 用水路を流れる水は、 <font color="red">見沼に代わる用水源</font>ということから見沼代用水と呼ばれるようになったのだそうです。 なるほどね。 ところで。 見沼田んぼの中央を流れる芝川には、昭和6年まで通称ナマズブネと呼ばれる見沼通船堀が運行し、 村々の産物を荒川を通じて江戸へ運ぶとともに、江戸からは、酒、魚類、塩といったものを運んでいたという事は、地元の人なら小学生でも知っているそうですが、これって行きは流れに任せていくのでいいとしても、帰りは逆流の中を荷物を積んでくるわけですから、本当に大変な作業ですよね。 つくづく昔の人の苦労を思い知らされました。 **9月3日(月)掲載**
|
浦和の水 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
今年のように暑かった数十年前のある夏の日の情景を思い出す。都内からやってきた親類の一人が、大汗をかきながらわが家に着いた。いきなり庭先の井戸の樋に口を持っていき、顔いっぱいに水しぶきを浴びながらゴクゴクッとひとしきりのどを鳴らしたあと、びしょぬれのままで破顔一笑「浦和の水はやっぱりうまいなあ」と言ったものである。
冬には雑巾しぼりの手をやさしい温もりで包み、夏の朝、網に入れたスイカを井戸の底に下ろすと、昼にはキリリと冷えた八つ割りが食卓にのる。口に含めば甘露、水割りにすれば芳醇(これは呑ん兵衛だった父の言)、わが家を訪れる友人知己は異口同音に「浦和の水はうまい」と言い、なかには水筒に詰めて帰る人までいた。 こうした井戸は隣近所どこの家にもあり、戸口を開けると、薄暗い小さな土間いっぱいを井戸が占領していた前の家、日の当たる井戸屋形で洗濯をするお隣のお姉さんの手元をじっと見つめていた幼い日の記憶、大きな鯉が泳いでいた井戸の底、どれも懐かしい井戸にまつわる光景である。 浦和地域は約30パーセントが何層もの火山灰質粘土層と関東ローム層が堆積した台地の上にあり、その地下深く豊かな水量に恵まれた浦和水脈があったという。埼玉大付属小近くの県南水道の揚水タンクからの配水が本格的になってきた昭和30年代初頭にはどの家にも水道が引かれ、それとともに井戸を使うことも少なくなってきた。 わが家の井戸は昭和35、6年頃まで庭の水遣りなどに使っていたが、今では蓋をされ植木鉢の台と化している。県南水道もかなり以前から荒川からの取水が主となり、地下水はほとんどないというのに、不思議なことにわが家の古い水道管からは、14、5年前まで、冬温かく夏に冷たい、あの「浦和の水」の名残りが出ていたのである。 **8月20日(月)掲載**
|
浦和東部地域だより | ||
「夏休みの身近な観光と自由研究にいらっしゃいませんか。」
浦和は、文教の街、サッカーの街、歴史の街といろいろな顔がありますが、私の住んでいる東部地域は、見沼田んぼをはじめとする歴史と自然の街だと思います。その中でも、今回は、季節柄、夏休みに役立つ情報を送りたいと思います。 ちょっと時間があいた時など、緑の多いこちらで自然と親しみませんか。さすがに今年は暑いのですが、見沼田んぼの他にも、農家の屋敷林や植木畑など、木陰が多いので涼しく感じます。日が陰る頃になると、芝川から吹いてくる風が心地良いですよ。野菜の無人販売や、産直場もあるので、新鮮な夏野菜も格安で手に入ります。 夏休みといえば、昆虫採集を思い浮かべる方も多いと思いますが、今年はカブトムシが捕れるそうで、多い人は虫かごいっぱい捕れたそうです。捕れるポイントがあるのですが、次行ってもいなかったりします。見沼の代用水辺りに、深夜や早朝いるという情報です。昼間は、あまりいないのでお子さん連れでは捕りづらいかな。クワガタは、コクワガタだけど、家に飛んできたりします。コオロギなど鳴く虫や、トンボなどの他の虫はいつもたくさんいます。ザリガニは、用水路にたくさんいる場所があって、釣ると楽しいですよ。 公園がたくさんあるのも、こちらの特徴です。子供が入って遊べるじゃぶじゃぶ池のある公園もいくつかあります。代表は、浦越線沿いの大崎公園ですが、池の他にも、小動物が触れる子供動物園(月曜、金曜は無し)、アスレチックや、休日には足こぎモノレールなどがあって、大きなお子さんも楽しめます。近くには、ブルーベリー農園があって、目に良いと評判の果物が、採って食べたり、お土産に持って帰れます。秋には、芋掘り農園も始まります。あと、中尾の中丸公園や、芝原の松芝公園も、入れる池があって、小さいお子さんは大喜び、滝やせせらぎもあって、そばにいるだけで涼しいです。中丸公園は、水が殺菌されています。 涼しくて、お子さんの自由研究など夏休みに役立つ公共施設が、東部地域にはたくさんあります。 まず、原山の市民プールは、流れるプールや売店もあって、一日楽しめます。駐車場が無いのが難点だけど、バス停は近くにあります。周りに緑が多いので、涼しく感じます。また、代表的な施設は、プラザイーストですが、図書館は席もたくさんあって、駐車場も広いです。調べものや勉強の追い込みに良いでしょう。催し物や各種教室もあるので、掲示板で見てください。 7/20から、9/2まで、さいたま市の博物館などの24カ所の施設で、第9回ミュージアムラリーさいたま市発見という催し物を行っていて、各施設を見学してスタンプを押し、10個以上になったら、駒場のさいたま市青少年宇宙科学館で記念品がもらえます。どの施設も、歴史や自然、生活に関することが学べて、自由研究や小学校の総合の時間に役立つ情報が詰まってます。こちらの地域には、三室のさいたま市立浦和博物館、上野田のさぎ山記念公園記念館、代山のシラサギ記念自然史博物館、大崎のさいたま市園芸植物園、その近くに浦和くらしの博物館民家園、先の宇宙科学館と6カ所があります。植物園は温室なので特別涼しく無いですが、ジャングル気分を味わえたり、宇宙科学館はプラネタリウムや宇宙の歴史のコーナーなどがあって、大人の方も楽しいですよ。また、博物館では、夏休みの行事として、昔の遊びを体験するというのを行っている所が多かったです。竹馬やお手玉などの中で、今流行のベーブレードの為か、こま廻しが人気がありました。大人の方も、童心に帰ってどうぞ。 今から六千年前の縄文時代には、東京湾は埼玉県のずっと奥、秩父の辺りまで進出していて、奥東京湾と呼ばれていました。その頃の浦和は、現在の台地の所が陸地でした。その為、今でも、高台を造成する時に、土器や貝塚、住居跡などの遺跡が発掘されます。高台の多い東部地域には遺跡が多く、博物館にはよくその出土品が展示してあります。常盤のさいたま市水道記念館には、大間木の東部浄水場を造る時に出た土器を展示してあります。私の家の近所も、よく出ます。その為、家を建てる時、重要な遺跡が出たら工事をストップして調査しなければならず、土器が出ないかドキドキしました。こうしてみると、古代から現代まで繋がるものがありますね。 外で自然と親しんだ後は、涼しい博物館で宇宙や古代のロマンに浸ってみては、いかがでしょうか。 **8月6日(月)掲載**
|
中山道・浦和宿を歩く | ||
え〜、まことにとりとめもないお話で一席おつきあい願います。いつのまにか聞かれなくなった古い浦和音頭に「江戸を離れて三里の宿場。松の並木にカラスが鳴いた・・・」という一節がありましたな。浦和銀座でちょいとナンパして、別所沼でバイバイ、などという教育上はなはだよろしくない2番まで、あちこちの盆踊りで子どもたちが無邪気に声を張り上げていたもんでございます。
そんなわけで、明治の半ばに生まれたあたしの婆さまに言わせると、中山道には松並木もかなり残っていたようでございます。終戦後まもなくのころまでは北浦和の廓信寺のあたりに、その松並木の名残があったような記憶があるんですが、<かくしん>はありませんな。その廓信寺には、仁王門と地蔵堂があって、どちらも江戸後期の作だそうでございますな。あたしゃ、ここの桜の古木の趣が何とも好きでして、花見時になるってえと一人でぶらっと来てボーっと見上げているのが楽しみでして・・ ここから先は、いつも世話になっているお店や昔なじみの老舗が軒を連ねているので、いちいち突っかかっているわけにもいきませんので、ちょいと頬っかぶりをさせてもらって、中山道を南に急ぐことにいたしましょう。そういえば、あたしのガキのころには北浦和駅と浦和駅の間には、5つほど踏切がありまして4つは地下道や陸橋になっておりますが、すみれ塗装店の角を曲がったところにあった踏切は跡形もないようですな。もっとも、浦和橋もその昔は大踏切で、ここから南の方が浦和町だったようでございますな。また、常盤町に住んでいたあたしのオヤジは浦和第一尋常小学校(いまの高砂小)まで歩いて通ったそうで、小学生の身でこれは尋常ではなかったと、不精者のあたしはよく引き合いに出されて、説教を喰らったものです。 浦和橋を渡ると、すぐのところに信号がありまして、そこを右に曲がって道なりに行くってえと、17号を渡って、旧制浦高の正門にぶつかることになっています。車でおいでの向きは途中から一方通行になってしまって、たどりつけないことになりますな。さて、再び中山道をさらに南に行きまして新浦和橋をくぐったあたりの左手に、かの石井桃子さんのお宅が親しくしていたという酒屋さんがわずかに往時の浦和の商家造りの佇まいを残しています。ここから十返舎一九が「代ものを積み重ねしは商人のおもてうらわの宿のにぎわい」と狂歌に詠んだ浦和の市に近づくのですが、そろそろお時間が参りましたようで、またのおいでを楽しみに、このへんで、失礼をばつかまつります。 **7月13日(金)掲載**
|
文教都市浦和? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
浦和はいつのころから文教都市を標榜するようになったのだろうか。明治初期の埼玉県立師範学校設立がその初めだといわれる。しかし、師範学校は時を前後して全国各地に置かれたので、浦和の特性とは言いがたい。実質的には、関東大震災後、都内はじめ各地から多彩な人材が移住してきたことと併せて、現在の北浦和公園と常盤小学校を含む地に旧制浦和高校が開設されたことに始まるのではないだろうか。旧制浦高は全国から学生を募ったので、非常にユニークでかつ優秀な人たちが参集していた。
白線入りの帽子に高ん歯、マントを翻してさっそうと浦和の町を闊歩する最後の浦高生の姿は、幼い日の幻にしてははっきりと記憶の底によみがえる。 戦後、空襲の被害が比較的軽微だった浦和の町に第2の大量移住期が訪れ、新しい学校が次々と建てられた。しかし、このころからは世の中の中流志向の波に乗り、浦和の各中学には寄留という手段を使った越境入学者が溢れ、学区制などないかのように全県から新制の浦和高校・浦和一女高などをめざす生徒が多かった。H社の模擬テストは県内各中学校に採用され、子どもたちの進学先決定に大きな力を持つようになってきた。特に偏差値導入後は薄切りと評されるほどに精緻に輪切りされた高校のランクが絶対的なものとして幅を利かせるようになり、各学校はどの高校どの大学に何人入ったかを競うことに全力を傾け、進学塾が乱立し、子どもたちにとっての教育はどこかに追いやられた感があった。浦和の教育関係者がよく口にする文武両道も、どれだけの人たちがスポーツを楽しみ、どういうユニークな活動をしているかよりも、大会に何回優勝したかだけが取り上げられているのがその実態だった。 労働官僚出身の竹内教育長が、ここ浦和から全国に先駆けて偏差値追放の口火を切ったことも、まさに浦和の教育状況を象徴した出来事であった。偏差値の代わりに導入された人格評価の色彩の強い内申書重視の選抜方式は、それ自体偏差値以上に深刻な問題を含むものではあるが、学校現場の大きな混乱のなかで、いったん旧来の秩序を崩し、改めて、次代の子どもたちをどのように育み、なにを伝えていくべきかを模索するきっかけにしなければならない。 しかし、浦和はまだマンションなどの不動産広告に「名門○○中学学区内」「○○高校至近」などという活字が踊り、他地域からの転入者たちが驚きとまどっているうちに、自らもその「教育熱」にあおられ、巻き込まれていってしまう、という不思議な「文教都市」である。 来年度からは、文科省の指導要領も大きく変わる。さまざまな分野で活躍する人たちが多い浦和から、そういう人たちの知恵を結集した多彩で豊かな「子どもたちへの発信」と柔らかな感受性を受けとめ育む場を提供する「子どもたちからの受信」のネットワークを学校と連動して地域ぐるみで作っていくとすれば、それこそ新しい時代に向けて「文教都市浦和」を宣言できるのではないかと考えている。 **7月9日(月)掲載**
|
「サッカーの街」 | ||
私達家族が浦和に引っ越してきて1年が経ちました。特に浦和に住みたかったわけでもなく、たまたま住むことになったのですが、サッカーが大好きだった長男は、心からこの町に住んでよかった。と思っているようです。
転校してきて、すぐに小学校のサッカー少年団に入った息子は、そのレベルの高さや練習熱心な仲間や指導者達におどろいたようです。週に3回も練習があり、平日は仕事のあるコーチにかわって、浪人生や大学生のOB達が指導にきてくれます。土日は練習試合も多く、勝つ喜びや負ける悔しさを体験してますますサッカーが大好きになったようです。 そして、先日サッカー少年団の友達とはじめて大原のグランドに浦和レッズの一軍の練習を見に行ったのです。いつもテレビで見ていた選手達を目の当たりにして感動し、小野選手や永井選手にサインをしてもらって大喜びでした。 「今度は駒場にもつれて行って!」 と頼まれ、近くのスーパーのサービスカウンターでチケットを購入しました。そしてさいたまスタジアムのこけら落としのレッズ戦も購入させられました。 私自身はそれほどサッカーファンではなかったのですが、いつもレッズ戦の日にうちから1kmほど離れた駒場競技場から聞こえてくるあの声援には、ちょっと血がうずいていました。それに息子の試合の応援に行くととてもストレス発散できます。それに先日テレビ中継されていたあのコンフェデレーションカップ・・・W杯にむけて、ますますサッカーにはまってしまいそうです。 **6月28日(木)掲載**
|
「あなたはチェーン店派?」 | ||
浦和の街を歩いていると地元の人がやっている個性的なお店が多いことに気付く。もちろん、大都市のみならず地方都市まで幅広く進出しているチェーン店は、ここ浦和でもあちらこちら目に付く。しかし、ふと目をあたりに広げると、目立たないながらもかなり多くの地元のお店が奮闘しているのである。
勢いのあるチェーン店のパワーは圧倒的だ。「早い、うまい、安い」の3拍子に加え、さらに笑顔でのサービスも徹底されている。繁盛しているチェーン店は、ブランド展開、広告宣伝、サービス、味、価格、立地などすべてにおいてバランスが取れており、かなり高い平均点がつけられる。一般のオーナーショップでこういうチェーン店と伍して戦うのは本当に大変だと思う。そして有名チェーン店進出の陰で、どれだけ多くのオーナーショップが店をたたんでしまったであろう。 しかし、そんな中、チェーン店なにするものぞと一生懸命に頑張ってるお店が実はたくさんある。どうしてもチェーン店では越えられない壁、すなわちオーナーのお店や味への愛情とこだわりにおいて、こういうお店は優等生的チェーン店に負けない魅力を持つ。そして、地元の人々はそんなとっておきのお店をいくつか知っている。 普通はチェーン店をよく利用する人でも、遠方から気の置けない友人が来たときなどは、そういう全国に1つしかないオーナーショップに連れて行く。南浦和に住んでいる私の場合、たとえば和食なら「丸味屋」、うなぎなら「小島屋」、中華料理なら「侠竹林」、西洋料理なら「ロッフェル」、お蕎麦なら「一茶庵」という具合になるけれど、別の人は和食なら「味浦」でうなぎなら「後楽園」かも知れない。 ラーメンなら、イタリア料理なら、エスニックなら…。こんな「自分情報」をみんなで分かち合うポータルサイトが誕生して実に嬉しい。そして、毎日増えつづけているお店情報を見ていると、よくもまあこんなに知らないお店がたくさんあるなぁって驚きさえ覚える。 市販グルメ雑誌の情報も整理されていて見やすいが、地元の人が発信するイキイキ情報という新鮮な魅力も格別である。私自身もチェーン店はよく利用するが、飲食店検索で紹介されたお店の写真と紹介記事を見ると、こういう地元のお店を応援していきたいものだとあらためて思う。 皆さんも、一緒に応援して行きませんか? **6月21日(木)掲載**
|
「さいたま市」になってしまった | ||
時の流れに逆らおうというわけではないが、浦和「原住民」としては、新幹線が停まらなくてもいい(そういえば、昔「急行が停まらない県庁所在地は?」というクイズがあった)、めぼしい観光資源などなくてもいい、緑濃く閑静な、文化の香り高い町浦和が残っていればよかった。物も仕事も趣味もイベントも、都内まで40分という足の便があれば充分だった。
あとは、誇りを持ってうまいものを供する店があり、いい食材が手に入り、大型店では得られないセンスのいい品々をそろえたさまざまな専門店があって、さらに、人と人が緩やかなネットワークのなかでイキイキと活動している町であればいい。そういう環境を求めて、創造的な活動を続けているさまざまなジャンルの人たちが移り住む。 浦和は今でもそういう町である。「ノンちゃん雲に乗る」で知られる石井桃子さんが「幼ものがたり」(福音館)のなかで描いた明治末期のゆったりとした時の流れのなかの浦和の風物は、昭和30年代まではそのかすかな名残はあったが、今ではその影すらもない。しかし、その後移り住んだ人たちの努力もあって、浦和はまた新しい個性を持った町として再生してきた。「拡大、発展、繁栄」が結果として、こういう浦和を失い、空虚な巨大都市のなかに呑み込まれていくことのないように、見守っていきたい。 **6月13日(水)掲載**
|
全19件中 新しい記事から 11〜 19件 |
先頭へ / 前へ / 1 / 2 / 次へ / 最終へ |